君に唇、僕に踵


トゥルルルル……

 夏休みもそろそろ後半というある日━━━━、
彼は電話の奏でる電子音で目を覚ました。

「あいじぃー、かあさん手が離せない。出て」
「はぁい」
 まだしょぼしょぼとしておぼつかない視界を精一杯広げて枕元の電話の子機を取った。
「はい、もしもし」
 彼の家には細身で武術等とは程遠い彼自身と、女性の二人しか住んでおらず、用心の為
電話に出る時には苗字を名乗らないようにしている。
『相沢さんのお宅ですか?……朝早くにすいません━━━━』
 電話の相手が、名前を告げる。
 彼は急にベッドに横たえたままだった体を起こし、背筋をシャンと伸ばした。
「僕だよ。おはよう、……ううん、起きていたから気にしないで」
 先程まですぅすぅと寝息を立てていたのをコロリと忘れて彼は嘯く。
『今日、午後から暇か?……もし暇ならお祭りに行かないか?』
「ひ、ひまだよっ……とっても暇で……金魚すくいがしたいナ」
 彼はどうしても上ずる声に、片手で自らの胸をなでつつ云う。
『じゃあ、五時に……そうだな、***駅前で』
「はい。……楽しみに……シテル」

 電話の向こうで相手が微かに笑った。
 彼は電話を切った。

プチュン

「おかーさぁんっ」
 彼はベッドから完全に体を抜き出し、自室の戸から半身を乗り出して叫んだ。
「藍慈、朝ご飯なら台所に用意してあるから、こっち来なさい」
「ありがトー、いただきますぅ。……じゃなくてぇ、浴衣今日着れる?」
 彼の言葉に廊下を掃除していた、母親が半身をひねってそちらを向いた。
「浴衣?……あるわよ。着せてあげましょうか?」
 彼は母に向かって頷いた。
「じゃあ早くご飯食べていらっしゃい。ちゃんと髪も結ってあげるから」
 ハァイ、と彼は答えて台所へと向かう。
 こじんまりとしたダイニングテーブルにつき朝ご飯にありつくと、掃除をしていた母が作業を中断してお茶を入れてくれる。
「ありがとう」
 お礼を云って、彼はよく冷えた烏龍茶を喉の奥へと流し込んだ。


 五時、五分前。
 僕は改札を抜けて駅前のロータリーへと出た。
 夏の日差しに手を翳しながら目を細める。
 駅前は彼と同じようにお祭りに行く人で溢れ返っている。
 両親に挟まれてはしゃぐ子供、腕を組んで仲睦まじく肩を寄せる恋人達。
 後数分でやってくるであろう彼と歩き出したら、自分も他人から見たらこんな風に
見えるものなのだろうかと考えて、勝手に僕は照れた。
 濃紺と白の市松の浴衣の袖をまくり、ゆるりと巻かれた腕時計を見る。
 そろそろ、時間だろうか。
「待った?」
 目の前に翳した手首の向こうに彼がいた。
「ワッ……」
 叫んで唇を震わせつつ僕は彼の前でピシャンと背筋を伸ばした。
「何驚いてるの?……ちょっと遅れたから怒ってるの」
 彼は、ひょいっと僕の肩に手を乗せて顔を近づけてきた。
「そ、そんなことないよッ、行こう」
 僕は彼の手を振り払うように踵を返して駅のロータリーを抜ける方へと歩き出した。
 ソロッと肩を並べて僕の手を捕らえる彼がククッと声を殺して笑うので頬が紅潮する。
「ナンデ笑うノ?」
 力なく眉を下げつつ聞くと、少し高い位置にある彼の顔がこちらを向いた。
「カワイーから……じゃダメ?」
 ワケワカラナイヨ、と呟きつつ、少しだけ笑んで前を向いた。
 相変わらずお祭りへと向かう道は混雑している。
 皆楽しそうで。
 自分も他人から見たらそう見えるのかと思うと嬉しかった。
 握られるままだった手を握り返すと、又彼は忍び笑う。
 そんなに笑わなくてもいいのにと思いつつも、どうしてもぎこちなくしかこういうことが出来ない
自分も悪いのだろうのだろうと思い直す。
 ごったがえす町のメインストリートをこえて奥まった場所にあるお祭りの会場、神社が見えてくる。
「先に参拝してしまおうか」
「うん」
 露店をひやかしながら二人で神社の参道の奥へと向かう。

 参拝を済ませて、屋台の並ぶ境内の通路に出る。
「どこ行く?」
 ちょっと高い所にある彼の顔を見上げる。
「うん。何食べたい?」
「……あんず飴」
 僕はちょっと俯いて言う。
 おかーさんは僕があんず飴を欲しがると、いつも眼を細めて笑うからだ。
 嫌な笑い方じゃないけれど、何だか気恥ずかしくなる。
 おかーさんはいつもその後、あいじはこどもなんだからぁ、と云いながら頭を触るから。
「ん。じゃあオレはそれをご相伴に預かろうかな」
 にこにこと笑って、彼は僕の頭に手をぽふんと置いた。
 おかさーん、ううん、おとーさんみたいだ。
 そう思いながら僕の手を引いて歩き出した彼について歩く。
 人が沢山で、ちまちましい僕は人ごみに飲み込まれそうになる。
「あい、大丈夫?なんなら肩車しようか」
 彼は無邪気に笑って他愛無く云う。
 僕は真面目にそれをどう断ろうか考える。
「百面相、面白いッ」
 彼はふっと鼻から息を吐いて笑うと、僕の肩を抱いてくれた。
 恥ずかしいけど、この方がはぐれない。
「ほら、あんず飴のお店あったよ。あそこでいい?」
「うん。エヘヘ」
 甘酸っぱいあんず飴、これの為にお祭りに足を運ぶといっても過言ではない僕は、声を出して笑う。
 人を掻き分けて目的の店の軒先へとたどり着く。
 大きな氷の塊の中に、水あめに包まれたあんずが浮かんでいる。
「おじょうちゃん、このくじひいて?」
 お店のおにーさんが木の正方形の箱を差し出す。
 これで出た数、飴がもらえるらしい。
 お金を払って、くじをひく。
 三角の二つ折の紙を開くと、3と書かれている。
「じゃあ、三個とってね」
 はぁい、と答えて僕はもなかのお皿に飴を乗せる。
 でも、おじょうちゃんって……。
 おにーさんは最後まで僕が男の子だと気が付かなかったらしい。
 髪が長いからだろうか?
 髪を女の子みたいに結んでいるからだろうか?
「……ぷぅ」
 飴を口に入れつつむくれる。
 彼はそんな僕の飴を一つ自分の口に入れつつ頭をぽんぽんとしてくれる。
 人ごみを抜けて金魚だとか大きな緑亀のいる池のふちに立つ。
「これ、いらない」
 口をもがもがして水あめを舐めていた彼は割り箸を短くした棒の先のあんずを口から出す。
「あ、そういうの好きじゃないんだっけ?」
 僕は粘る水あめを前歯で噛み千切りつつ言う。
「水あめ垂れてるよ」
 彼は小さな声で笑って、僕の唇の下を指で撫でた。
 指先についた飴を彼は口に含む。
 そして、ちょっとだけ困ったように自分の手の中のあんずをもなかのトレイの上にのせた。
「ちょっとかして」
 僕は言って、彼の手からそれを受け取った。
 そして、そのままくしゃくしゃと口に入れる。
「食べるのカヨ……」
 彼は呆れた様に僕を見る。
 よう、ではなくて、呆れているんだろう。
「だって食べないでしょ?」
 僕はつとめて純粋に言う。
 恥ずかしがったら、なんとなく嫌な雰囲気になりそうだ。
「そうだけどさ……」
 彼は眉根を寄せた。
「あは、ムズカシーかぉぉ。美味しかったよ?飴食べル?」
 僕は池まで来る途中で飴の量り売りの屋台で買った砂糖のたっぷりまぶされたフルゥツキャンディを彼に差し出す。
「食べル」
 彼が眉根を寄せたまま僕のような発音で言い、飴を受け取るのを笑いながら眺める。
「ねぇ、時間大丈夫ナラ、花火見ていカナイ?」
 彼の家には彼よりも幾分か歳のいかないキョウダイが一緒に住んでいる。
 ご両親の姿を見たことがないから、主に彼の家に住んでいるのは彼とキョウダイ達なのだろう。
 彼だけならともかく、まだうら若い少年少女達を家に残していては心配ではないのだろうかと思いつつ問う。
「ンー?大丈夫だけど、あいこそお母様は?」
 彼は、僕の心配をしてくれる。
「平気。今日は、おかーさん、職場の人とご飯行くって言ってたもん」
「じゃあ、帰りは家まで送るから」
 彼は当然という感じでサラリと優しい事を云う。
「でもォ……お家の人が心配するでしょ?早く帰らないと……」
 僕の言葉に彼は視線をそらす。
「おこさまはそんな事心配となくていい」
 彼の言葉に反論しようと思う、が、駅からの暗い道のりが怖くてバスはまだあるだろうかと思案した僕は、十分子供
と云われても仕方がないので頬を膨らませた。
「ほら、他に買う物あるなら買って、花火見る場所、探しに行こう」
「じゃあ、苺飴とチョコバナナと、後えび焼き……後大阪焼き」
「よく食べるね」
 彼は又眉根を寄せた。
「一緒に食べてくれないの?」
 僕が云うと、彼は困ったような、少しだけ嬉しそうな、そんな複雑な顔をして頷いた。


「あい、平気?」
 僕と彼は神社の裏手の獣道を奥へと登った高台にある公園にいた。
 神社の境内から出て普通のアスファルトの道を神社を迂回するように登ると、この場所の正面入り口に出る。
 今は時間短縮の為、獣道をきた。
 切り立った神社の見える公園の隅。
 だけど、ここは花火が少しと遠目になるものの、よく見えるらしい。
 切り立った斜面に面している淵には鉄のパイプの柵で遮られている。
「そろそろ始まるカナ」
 僕が云うと、彼は徐に僕の手に持った食べ物を奪い取り、そのまま僕を抱えた。
「すわんなよ」
 そして少し高めの柵の上に僕をのせてしまった。
 僕は両手で柵を掴む。
 パイプが太いので座りやすいけれど、両手がふさがっていて、これじゃ食べ物が食べられない。
「あ、始まった」
 彼が視線を前に向けた。
 神社の中から光の筋が空に飛び上がっていく。
パァンッ
 光が弾けてスプラッシュする。
「きれぇぇ」
 僕は我を忘れてはしゃぐ。
 背後から彼が腰に腕を回してくる。
 そして僕のひざの上にえび焼きを広げた。
「食べよう」
 彼は僕の腰の横に頭を乗せつつえび焼きを食べる。
「僕もぉ」
 僕は片手でえび焼きを食べる。
「おいしぃぃ……お祭りご飯大好き」
ドォンッ
 花火が弾けてる。
 それを見ながら食べる屋台食は良い。
「お祭りご飯……ね」
 むぐむぐと大阪焼きを食べつつ彼が云う。
「お祭りはいいよねぇ……花火はいいよねぇ」
 それはまるで夢の国みたいな。
 某鼠園みたいな他人が用意してくれる完璧な夢の国じゃないけれど。
「また一緒にこよう」
 浴衣、似合ってるよ。
 彼が云って、次の瞬間、パイプについていた手首にあったかいものが触れる。
 下を振り見る。
 彼が僕の手首に口付けている。
「花火……見ないの?」
「ちゃんと見てる」
 クスクスと彼は笑って、花火の弾ける夜の空みたいな深い色の瞳で僕を見る。
「もう……」
 視線を前に戻す。
 花火はいろんな色を空にぶちまけて。
 そのかけらがヒラヒラとこちらまで舞って来る。
 それをひょいっと指先でつまむ。
 彼が腕の拘束を一瞬強くする。
 それを下を見て、ありがとう、と笑う。
 花火の火薬の匂いが鼻を掠めて、それを乗せてくる風は少し冷たくて。
 夏休みもそろそろ終わりだなあ、と僕は思う。
「レポート終わった?」
 唐突に僕は彼に問う。
「終わってる」
「今度見せて。僕何書いていいかよく解らない」
「うん。家においで」
 うん、と答えて空を見る。
 宿題、全て終わるだろうか。
 苦手なものだけ、二、三、まだ残っている。
「もうすぐ夏休みも終わりだな」
 彼が云って。
 僕は少しだけ憂鬱になりながら、彼の家に行く時に何を着ていこうかとか、そんな事を考えてドキマギした。



「さあ、帰ろう。足元、気をつけて」
 花火が終わり、公園から今度はアスファルトの道を通って駅へと戻る。
 まだお祭り気分の人々が、道には溢れていた。
 それだけで楽しい気持ちになる。
「あい、足、大丈夫?」
 駅のロータリーまで来ると、彼は足を止めて云う。
 気が付いていたんだ。
 久しぶりに下駄なんて履いた所為か、鼻緒のところが擦れて痛い。
「ちょっと休もうか」
 ロータリーの歩道にしつらえられたベンチに彼が腰掛ける。
「ほら、あいも少し下駄脱いで座ろう」
 彼に云われて、隣に腰掛ける。
 目の前には湧き水の水盤がコポコポと小さな音を立ててたゆんたゆんと波立っている。
 下駄を脱いで、体を折り曲げる。
 そっと足を伸ばして水盤の中に足を入れる。
 湧き水だからとても冷たい。
「冷たい……」
 僕は笑う。
「ほんとだ」
 彼もみずはぐむ姿勢で水に手を入れている。
「あ、金魚、」
 するりと水盤の中で赤い影が揺れる。
「どこ?……本当だ」
 金魚はスルスルと彼の手の辺りをたゆたう。
「どうしよう……このままにしてたら死んじゃうカナァ」
 僕はふと、金魚すくいをしなかったことを思い出す。
「どうかな。まあ、このまま川に流れていくんじゃないの?」
 水盤の水は水路に流れ、そして、市と市の境にある川へと流れていくのだ。
「連れて帰ってもいいと……オモウ?」
 手元には飴の入っていたビニール袋がある。
「どうせ誰かがすくったけど飼えないから捨てていったんだろ。そうしたいならそうすればいい」
 手で彼はビニール袋をよこせと合図する。
 僕はたもとに入れていた袋を彼に渡した。
トプッ……ピチャン
 彼は静かに、ビニールこど水に手を入れて金魚をすくいだした。
「ほら、こぼさないようにな」
 口の紐を引き、彼は僕に金魚を差し出す。
「うん」
 答えて、それを受け取る。
 真っ赤な金魚が、とろとろと水の中で泳いでいる。
「帰ろう。遅くなるよ」
 僕は頷いて、水の中から足を抜く。
 そして、僕は彼の手をとる。
 彼は手を震わせた。
 僕は彼の手を握って歩き出す。
「早く行こう。あんまり遅くなると、おうちの人が心配するヨ?」
 ああ、と彼は頷いて、そして優しく、手を握り返す。

END




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