蠢く、もの



どくんっ……

 胸の奥で内臓気管が大きく鼓動する。
 その音が、異様に大きく聞こえる。

━━━━あれがくる。

 藍慈は闇の中で瞼を開く。

ウフフフフフフ

 何処からともなく声がする。
 もう兆候が出ている。
 人間の部分が変形している。
 ぞわぞわと服の中でアレが広がっている。

「嫌だって━━━━云ってるだろッ」
 小声で云い、寝台の上で僅かに震える。
 耳と尻尾。
 それは宿命の兆候。
「僕は━━━━見つけたんだ。ちゃんと見つけたんだから━━━━僕の光を見つけたんだからっ」
 枕を掴む。
 それが窮屈に広がるので足でパジャマのズボンと下着を脱いだ。
 目の前で金色のものが転げまわっている。
 それは、金色の狐だ。
 たっぷりとした毛並みの九尾の狐。
『それで━━━━逃げられると御思いかえ?』
 コロコロと狐が笑う。
「僕は僕の行くべき場所なんて自分で決められるんだからっ」


 その狐がやって来たのは何時だろう。
 そう、数日前━━━━。
 朝、気が付くと盛大に耳と尻尾が生えていたのだ。
 その時は何処かでこっくりさんでもやったのだろうと思って気にとめもしなかったのだ。
 時々、霊的な物を扱える人間が混じったこっくりさんだとかエンジェル様だとかいう呪い事の後始末のしくじりに出くわすことは
あった。
 その時はちゃんとしかるべき処置で担当場所にお帰りいただいたのだ。
 だがそれは違った。
 それが見せたのは━━━━。

「僕は帰らないからなっ」

 叫ぶ。
 母の寝息が、隣室から微かに聞こえる。
 これが壊れるのは嫌だ。
 この狐は云うのだ。

 藍慈は山に返るべき存在であると。
 自分は山の神に使える狐で、藍慈にとり憑いて山へ連れ戻すのが役目だという。
 実際、狐の力は強い。
 霊的に敏感な髪がまずまとまらなくなった。
 一瞬でも気を抜こうものなら狐の耳と尻尾が生える。
 游椰にだけはその姿を見られたくなかった。
 人の精を吸い、牙を生やし、肉も食べられる。
 これは醜い獣だ。
 欲望の権現。
 それとずっと戦い続けている。
 楚々と、している。
 そんな風に見られているのが心地よいから。
 そんなイメェジを壊したくない。

 瞳の端に姿見が見えた。
 枕を掴む手に、鋭く銀色に輝くものがついている。

━━━━爪。

 それは人の肉を引き裂く為の爪だ。
 どんどん同化が進んでいる。
 耳や尻尾を隠すのが困難になっている。

ウフフフフフフ

 狐が姿見を凝視して困窮する藍慈を見て笑う。
 いずれ支配されてしまえば、僕は自らあの場所へ赴くことになるだろう。

 帰るべき、山へ━━━━。

『それが━━━━わらわとの同化かとお思いかえ?』
 狐が云う。

 違うとでも云うのだろうか。

ウフフフフフフフフフフフフフ

 狐の声が盛大に僕の頭の中でエコォしている。
 その時だ━━━━。
 誰かの手が優しく僕の髪を撫でた。

 誰━━━━?

『もう、すぐ奥方様は邪魔しなはるン』

 それを探る前に僕の意識は張り詰めた緊張の糸を切らし、深くへと沈んでいた。


 解っていた━━━━。
 自分が普通の子じゃないことなんて。
 昔からそうだった━━━━。
 どうしても一番親しい、そう云える友達が出来なかった。
 周りとは上手くやっていた。
 否。
 上手くやっているつもりだった。
 だけど━━━━、

 友達は皆、藍慈と視線をかちあわせようとしてくれない。
 藍慈から、いつもほんの一歩離れている。
 距離が━━━━ある。
 見た目ではない、精神が。
 それが解ってから、自分から一歩距離を置くようにした。
 自分から蚊帳の外に出た。
 表面上はやはり友達もいて、上手くやって。
 けれど一番浮いている。

 僕は━━━━人ではなかったのだ。
 あの、躊躇うように逸らされた視線は畏怖?

 だから一歩退いた。
 だけど彼だけは違う。
 いつも藍慈の側についていようとする。
 視線がそれない。
 触れても怖がられない。
 
━━━━心の底から、側にいてくれる。


「藍慈……何て格好で寝ているの」

 声が━━━━、
 そうか。

 僕の、人間としての朝が来たのだ。
「おはよう、おかーさん」
 体を起こす。
 尻尾も耳も爪もない。
 藍慈は、枕を掴んで布団を蹴り上げたまま眠っていたのだ。
 眠りというよりも、失神だが。

「どうして下着を脱いじゃうの……まったく……いつまでも子供みたいね。お父さんがいたら叱られるわよ?」
 おかーさんは僕を疑ってなどいない。
 僕の中で蠢く、それに。
「うん……そうだね」
 まだ眠い、そんな顔をして誤魔化す。
「朝ご飯できているから、早く着替えていらっしゃいね」
 おかーさんの言葉に頷いて、僕は脱いでしまった下着とズボンを回収する。
 変に勘ぐらないおかーさんは、霊的にも母親的にもなんだかな、だ。

 おかーさんと楽しく話しながら食べる朝食も、近所の同じ学校の子と話しながら登校する道すがらも━━━━、
 全て人間としての日常。
 今までの日常。

 今まで?
 僕は納得しかけている?

 不意に彼の顔が脳裏に浮かぶ。

 納得なんてしない。
 僕は山へなんて行かない。

 爪で人を切り裂いたりしない。
 肉を食べたりしない。
 精を吸ったりしない。

「相沢さん、大丈夫?顔、真っ青━━━━」
 教室に着いてからもどことなく落ち着かない。
 結論は出ている。
 でも、何となく落ち着かない。
 心誘われているのだろうか。
 狐の誘いに。
「平気、ダヨ。あ、でも保健室行こうかな。ちょっと寝不足で」
 笑う。
 声をかけてくれたクラスメートは何だそうかという顔で送り出してくれる。

ど……くんっ━━━━

 又だ。
 アイツが出てくる。
 廊下を走る。
 何処かに身を隠さないと━━━━。

タンッ

 使われていない教室へと入る。
 カーテンも閉まっている。
 薄暗い━━━━。

ウフフフフフフフフフフフフ

 狐が跳ねた。
『坊はまだ気が付かないのネェン』
 僕は身をうずくまらせている。
 爪が、━━━━。
 牙が、━━━━。
 耳が、━━━━。

 僕は急いでズボンを脱ぎ捨てた。
 尻尾が溢れ出す。
 それが僕を取り巻くようにふわふわと立ち上がっている。
「な……にが……?」
 体中がだるい。
 精神と体が引き裂かれるような。
 乖離感。
『その姿は━━━━わらわのものではないのヨン?』

 一瞬、僕は目を剥く。
 否。
 それは本当に、刹那。

 本当はわかっていたじゃないか。
『それが坊の本当の姿━━━━坊は親方様の血を引いた正当なる後継者』
 そうだよ。
 僕は━━━━、

 人間じゃないことなんて。
 
 赤、青、白、黒、ブードゥー、北欧、ギリシャ、日本。
 ありとあらゆる神話を、魔術書を読み漁り、調べ上げた。
 自分の中で、ずっと蠢くそれを追い出す術を。
 何度行っても、幾つ行っても上手くいかなかった。
 だってそれは━━━━、

 僕の中に根付いているんじゃない。
 僕が━━━━、
それ自身だから。
『ねぇ、坊もするといいよ。山の神として、人をお食らい?精をお吸い?奪って、攫って、自分の物に出来るよ━━━━』
 どんなものも。
 坊の欲しがっているあの子も━━━━。
 金色の狐が、頬を寄せてきた。

「游椰に手を出したら━━━━お前を殺す」

 パリンッパリンッと電灯の硝子が砕けた。
 ボッと音がして青白い火が僕を取り巻く。

『オホホ、流石は奥方様の血筋ダァ、気がお強くていらっしゃる』

 でもね━━━━、と狐は嘯く。
『奥方様が邪魔なさったってネン、お前は帰る事になるんだ。そういう定め━━━━だってそんなに美しい』
 僕は爪で狐を突き飛ばす。
 ウフフ、とそれが笑う。
「醜いだろ━━━━こんな……こんな姿」
 隠せない。
 こんなもの隠して生きていけない。
 これが定め━━━━?
 こうなる運命だったから、おとーさんもおかーさんも僕を山から引き離そうと━━━━、

 蠢いている。
 体の中で血が。
 解っていたのに。
 こんなにも悲しいのは何故だ。
 ゾクリと体が震える。
 人間であり、何も知らないふりをしたかった。
 自分が違う物だと自分で肯定したくなかった。

 頭を抱える。
 
「それで━━━━いいのかい」

シャッ

 カーテンがひかれた。
 明るい陽光が教室内に差し込む。
「だ……れっ」
 見られた━━━━この姿を。
 人間にもなりきれず、狐として生きることも肯定できない。
 この中途半端な姿を。
 耳ご禁制の学校で。

「誰でも━━━━いいよ。別に驚きはしないよ、ほら」
 陽光に包まれた背中が振り向いた。
 制服姿ではない━━━━それに━━━━男の子ではない。

 女性?
 何故ここに女性が?
 教諭か?
 それにしたって━━━━。

 女は白い着物の裾を短く切りほっそりとした足を丸出しにしている。
 黒下駄を履き、髪は頭頂に結い上げられている。
「あなたは……━━━━!!」
 女は髪をほどいた。
 その中から銀色の毛並みの耳がフルリとあふれ出す。
 二本の足の間から同じ色の女の様にほっそりとした尻尾が二本顔を出す。
『奥方様ン、お邪魔なさるのやめて下さい』
 金色の狐が云っている。
 奥方━━━━?
 と、いうことは━━━━。

「おばあちゃん等と呼ぶのは止めてもらえるだろうか」
 女性は僕の目の前まで来るとおざなりに机にお尻を乗せた。
「じゃあ、おねえ━━━━さん」
「無理があるな。まあいい。好きに呼んでくれ。今の私には名等、名乗れないからね」
 女性は尻尾を掴んで着物の中に仕舞い込み、耳も髪の中へと隠し、再び結い上げた。
「梓、この子は人間として下界へとやったのだ。いくら資格があっても、あの方の命令でも手を引いてはくれないかね」
 金色の狐が、奥方様、の言葉に跳ね回る。
 不機嫌そうに狐火を撒き散らす。
『わらわだって好きで来たんじゃないでスン。この子が一番資格があるから━━━━』
「お前が云うほど、藍子や藍美は力がないわけじゃないよ。藍もね」
『そりゃあ、藍様の坊やでもわらわは構いませんのヨン?でも━━━━』
「男児がいいなら私が産めばいいのだろう?」
 ギロリと奥方様が梓を睨む。
『あらン━━━━』
 クスクスと梓が笑った。
「仕来りにとらわれたって何がいいんだい。早くお消えッ」
『わかりましたわヨン』
 狐はすっと陽光の中へととけた。
 いなく━━━━なったの?
「お前は、私と私の夫の跡を継ぐ気はないだろう?」
 僕は首を強く縦に振った。
 そんなの嫌だ。
 ここにいたい。
 見つけたのだから━━━━蠢くこの血━━━━心の闇を癒してくれるものを、光を。
「私の夫が天へと帰りたいから代替わりをしたいと云い出してね。迷惑をかけた」
 奥方様は優しく僕の頭を撫でた。
 その手は━━━━。
 昨日の夜の。
「私がお前の守護霊として着いて悪い虫がつかないように見張るなんてあの方に嘯いちまったのがいけなかったのサ」
「じゃあ、おねえさんがずっと僕を守ってくれたの?」
 僕は立ち上がってその人を見つめる。
 僕とほとんど同じか━━━━少し年上か。
「もうお仕舞いさ。私は帰らなきゃ。さっきも云っただろう?お前や、他の孫を連れて行かせるわけにはいかないよ━━━━
面倒だけど、私が産むしかないさ」
「世襲制なの?」
「そうでもないサ。でも村にいる山神になる資格のある男なんていったらお前の父親くらいなのだよ
━━━━それにあれはあれで年を食いすぎているね。一応男児が継ぐことになっているからそれでお前にお鉢が回ってきちまった。
お前は━━━━たぶん私の夫と同じくらいの力があるからね」
 奥方様、祖母の言葉に悲しくなる。
「僕は━━━━人間じゃないの?精を吸って生きなきゃいけないの?人を食べないといけない?」
 それは嫌だ。
 絶対に嫌だ。
 この爪も牙も。
 全て━━━━。
「お前は、どうお前が否定したとしても、その体の中に狐を飼っている。でも、狐たろうとするかどうかはお前次第だ━━━━
だってお前はお前という個人だ。それにお前は私の子でも何でもない」
 何年も前にこの藍湖(らんこ)という名前だった娘の体は神に捧げ食べられてしまったのだからね。
 と、奥方。
「嫌じゃなかったの」
「愛していたから」
 愛して、いた。
 真正面からそういう恥ずかしいことを云う奥方に、藍慈は顔を赤らめた。
「お前だって、遠くへ行きたくないだろう?私達の行く場所へは━━━━あれはつれていけないからね」
 あれ、の含む所に藍慈は首を横に振った。
 あの人と離れたら、生きていけない。
 もう二度と、闇の中から戻れない。
「それで━━━━おねえさんはいいの?」
 藍慈の言葉に奥方がにっこりと笑って、自分より小柄な彼を抱きしめた。
「愛に、お生き」

 身を離すと、彼女はすっと窓辺へと歩いていく。

シャッ

 カーテンが閉められた。
 薄闇。
 奥方はもういない。

 蠢く、もの。
 それは血。
 追い出せない、認めなければいけないもの。

「おーい、藍、何処だー、……保健室にいなかったし……ブツブツ」
 廊下から声が聞こえた。
 その声を聞いた途端、耳も尻尾もするりと内面へと隠される。
 認めてしまえば、話は早かったのだ。
 隠して、生きていける?

 僕は自分に問う。

「愛に、生きるから」

 小さく答えを呟いて、
藍慈は服を整えて教室を出て行った。


「游ちゃん、僕はここ……ダヨッ」

END





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